視聴する、ということ
『この声を君に』に関する完全なる備忘録。
あんまり明るくない極めて個人的な話なので万一お読みになるなら読後に聴く何かお気に入りの曲を用意するといいです。多分。
9/15から開始した連続ドラマ、『この声をきみに』をやっと視聴することができた。
実に三回分である。
上記2行に凝縮されている通り、私はドラマをほとんど見ない。
どのくらい見ないかというと、ワンクールすべて視聴した連続ドラマがここまでの人生で1タイトルもない。あまちゃんも家政婦のミタもマルマルモリモリも恋ダンスも、である。
普段から見慣れている人なら、おそらく”ドラマを視聴する”という時間が設けられているから、その枠に任意のドラマタイトルを入れるのだと思う。暇つぶしの優先順位第一位が読書な人間なので、テレビの総視聴時間は確かに短いのだが、それだけではないような気もする。毎回見ている番組も一部あるのだ。
なぜだろうか。
―そのぼんやりとした疑問の解が、明確に象られるのに時間はかからなかった。第一回目の放送から、それはいわば地雷だったのだ。
私はドラマも見ないが、映画もほとんど見ない。年に2回見たら多いほうである。今年は2回*1見たので最高タイだ。DVD/BDはジャニーズに興味を持ち出してから見るようになった。
その割に本はやたら読む。月に10冊は下らない。
その違いは何だろう、とぼんやりと考えていたところに、主人公が京子先生に詰られる。思わず、リモコンに手をかけていた。
無論、早送りするためである。と同時に、ああ、と気づいた。
私はおそらく感情のわだかまり/衝突の場面を等倍速で見ることに耐えられないのだ。
普段趣味で読む本は小説が中心なので、そういう場面はないことはない、むしろふんだんにあるのだが、それは読み飛ばすことができる。慣れすぎて、そういう場面が来た時の拾い読みが上手くなってしまった。
それができない映像作品を無意識に避けてきた。避けてここまできてしまった。
思い返せば、諍いに巻き込まれると自分の身を多少削ってでも早く収束させる道を真っ先に選択していた。それは私がいい人だからなのではなく、怠惰なだけだ。科学的な定規を以て思考すれば、生きやすくなると思っていた主人公となにも変わらない。
そして第二回・第三回、ところどころやっぱり早送りしてしまったのだが、一番印象にのこったのは次の言葉だった。
「その声は嫌いだ」
主人公が思い出す妻の声。荒げられた声。対する主人公の声。思わず突っ込んでしまう声は平板で、言い返す声もしかめられている。
回想シーンとの対比も相まって、その声の不快さは際立つ。
朗読教室の場面になるとその不協和音は落ち着く。誰かが突っかかりそうになってもすぐに仲裁が入る。その空間は、視聴者、という名の下で徹底的に傍観者である私も落ち着く。
そして気づく。
私が嫌いなのは、諍いそのものではなく、諍う声なのだ。
だから今までドラマを見なかった。
しかしそれではいけないし、何よりつまらない人間なのではないか?
このドラマは全8回なので残りは5回である。その回数について私は感想を持たないし持てない。
でも、私が最後まで視聴できる、最初の連続ドラマになるのはこの作品なのだろう。きっと。
朗々と文章を読み起こす朗読教室の面々をみながら、そんな他人行儀なことを思った。